海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「負け犬のブルース」ポーラ・ゴズリング

主人公は41歳のピアニスト、ジョニー・コサテリ。クラシック界で名声を得ながらも挫折、ジャズへと転向した。雑多な仕事でカネを稼ぎ、コマーシャリズム化した音楽業界で才能を発揮、それなりに成功を収めている。だが、クラシックへと引き戻そうとする周りの声と、いまだ未練の残る内なる声に男は揺れていた。そんな中、元恋人が何者かに殺された。コサテリの住居から帰った直後のことだった。恋愛感情はすでに無かったが、体の関係はまだ続いていた。当然警察は彼を容疑者として扱い、身辺をしつこく嗅ぎ回り始めた。過剰なまでの暴力を受けて死んだ女は、表向きは骨董屋を営んでいる成金クラバトンの愛人として囲われていた。クラバトンは愛していた女の復讐を果たすためにコサテリを狙う。遂には演奏家にとっての生命線である左手を砕かれる。女は何故、殺されたのか。クラバトンでなければ、誰が殺人者なのか。身体とプライドを傷付けられたコサテリは、冷たい怒りの中で反撃に転じる。

1980年発表作。簡潔な文体でテンポが良い。主軸となるのは謂われ無き殺人容疑をかけられた男の苦闘だが、それと同時に停滞期に入ったピアニストとしての鬱屈した日常と、地味ながらも純粋な女と出会い恋愛へと発展するさまを、女性作家ならではの繊細なタッチで描いており、本筋よりも面白い。終盤ではド派手なカーチェイスも用意。多少くたびれながらも、いざという時は存在感を放つ中年ヒーローを鮮やかに印象付ける。また、冴えない私立探偵が登場し、コサテリの依頼で謎を探る役目を担うのだが、主人公と〝読み手〟の第一印象を覆し、徐々に底力を発揮し主人公を支える大きな力となっていく。この探偵の造型が巧い。
プロットにはささやかな捻りを加えているが、事の真相はやや強引。敢えてミステリの要素にこだわることで、仕上がりが雑になった感じがした。

以下は、個人的な不満。曲がりなりにも、ジャズマンを主人公としているため、その界隈の蘊蓄や魅力をどう表現するかに着目していたが、ゴズリングはどうやらクラシックの方が好みらしく、ジャズについては題材のひとつとして割り切っているようだ。脇役として少なからず登場する演奏仲間二人がいるのだが、一人はアル中のサックス奏者だと分かるものの、もう一人がベースなのかギターなのか最後まで分からない。カルテットで活動しているようだが、演奏シーンは一度もない。細部をなおざりにしているため、ジャズ・ファンとしては食い足りなさが残った。

 評価 ★★★

 

「ウバールの悪魔」ジェームズ・ロリンズ

古代ロマンを軸に事実と虚構を織り交ぜたエンターテインメント「シグマ・フォースシリーズ」〝第0弾〟で2004年発表作。次作から主役を張るグレイ・ピアースはまだ登場せず、この後シグマ司令官となるペインター・クロウが現役隊員として活躍する。ただ、ロリンズの描くヒーロー像は、作品によって大した違いはない。共通するのは、最先端科学に精通し、戦闘能力にも長けたタフな男が、数多の試練を乗り越えて、強大な闇組織の企みを打ち砕くというスタイルだ。甘美なロマンスを絡めている点も同じで、娯楽小説の要素をふんだんに盛り込んだパワフルな冒険スリラーとなっている。

本作の主な舞台は中東オマーン。広大な砂漠の下に眠る伝説の古代都市「ウバール」では、核を遙かに超える無限のエネルギー源「反物質」が使われていたという。或る嵐の夜、大英博物館が保管していたウバールの遺物が謎の衝撃波を発して爆発した。英国の考古学者らはオマーンへと飛び、秘密の根源に迫ろうとする。事件を知った米国国防総省は、秘密特殊部隊「シグマ」隊員のクロウら精鋭を派遣し、学者グループに同行させて事態の真相を探らせる。時を同じくして世界覇権を狙う秘密結社「ギルド」の工作員らも動き始めていた。かくして、未知の物質を巡る壮絶な攻防が大砂漠で展開する。

ロリンズの作風は、才能と実力を兼ね備えたダン・ブラウンの系譜に連なり、本作の核となる反物質も「天使と悪魔」(2000)で扱った題材だが、大風呂敷においては遙かに上回っている。現代科学によって古代遺跡の謎を解き明かしつつ、絶え間なく繰り広げる秘密結社との死闘。いかにもアメリカ的な勧善懲悪を根底に置き、男女の恋愛や家族愛などを謳い上げつつ、中弛みなく冒頭から結末まで突っ走る。物語では、超人的な特殊能力が謎を解く鍵となるのだが、ここら辺はあくまでも〝娯楽〟的要素のひとつとして割り切る必要がある。映画「インディ・ジョーンズ」の小説版を手掛けている通り、見せ場たっぷりの冒険活劇は視覚的で臨場感に溢れ、加速するスピードは息つく暇も無い。相変わらず長大な小説を破綻することなく仕上げるロリンズの力量には圧倒されるが、読み手に体力がないと消化不良を起こしかねない。私は、読了後しばらくは〝さっぱり系〟の小説でひと休みすることにしている。

 評価 ★★★ 

 

「甦える旋律」フレデリック・ダール 【名作探訪】

「世界じゅうでいちばん悲しいものは? それは壊れたバイオリンではないかと思う」
ナイーヴで感傷的なモノローグで始まるこの物語を初めて読んだのは、私自身がまだまだ未熟で多感な時だった。読む物すべてが新鮮で知的な〝冒険〟に満ちていた頃。そんな中で本作と出会い、心を揺さぶられた。読了後しばらくは深い余韻に浸り、何も手につかなった。ミステリの読み方を変えた一冊であり、悲劇的な終幕のカタルシスによって、心の奥深くに刻み付けられた作品である。

舞台はスペイン北東部の港湾都市カシティールデフェルス。真夜中の車道に潰れたバイオリン・ケース。溝の縁に横たわっている女。運転席の青年は、それを呆然と見つめる。
「この死人のようなバイオリンはぼくの心を痛ませた。この瞬間に、ぼくをここに導いたのは運命的な、一種の感情の昂ぶりだった」
女は青年が運転する車の前に突然飛び出してきた。幸いにも軽傷で済んだようだった。美しい女だった。青年は仮の宿へと彼女を運び、医者を呼ぶ。翌朝、目覚めた彼女はフランス語を話した。だが、それまでの記憶を完全に失っていた。医者は言った。昨夜の事故で受けた頭への衝撃は軽く、記憶喪失は外傷のせいではない。恐らく、すでに神経障害に苦しんでいたか、事故による動揺で精神上のショックを惹き起こしたのだろう、と。

青年は、フランス人の新進画家ダニエル・メルメ。創作のため、スペインに滞在中だった。女は身元を証明する物を持っていない。領事館も役に立たなかった。彼女は何者なのか。唯一の手掛かりは女が身に付けていた服の購入先で、フランスの或る地方にあった。
「マリナンヌ……」。幾つか試した中で、彼女が反応した名だった。ダニエルは、彼女の記憶を取り戻そうとする一方で、急速に惹かれていく自分に気付く。〝マリアンヌ〟もまた、青年のみを頼りにし、傍を離れようとしなかった。必然、二人は激しい恋に落ち、希望に満ちた明日を夢見るが、それは所詮夢にしか過ぎなかった。

1956年発表作。いかにもフランス作家らしいロマンチックなサスペンス小説で、プロットはシンプルながらも構成は練られている。翻訳文庫本で200ページほどの短い作品だが、ロマンの魅力が凝縮されている。主人公の情操は、一人称の語りによって繊細に伝わり、読み手が若者であれば、青年が体験する物悲しい悲恋に自ずと引き込まれていくだろう。
狂おしい日々。もはや青年にとって、愛する女の正体などはどうでもよかった。この先は、生まれ変わった二人で共に生きていきたい。しかし、彼女を呼び戻そうと暗い〝過去〟が手を伸ばす。それを逃れるためには、どうしても新たなパスポートが必要だった。ダニエルは彼女を残して一旦フランスへと戻り、違法な手段で準備を進める。その間、青年は彼女が服を購入した店のある地へと赴いた。探偵もどきの真似ごとをして、ようやくマリアンヌが住んでいた場所を突き止める。そして、事実を知る。

あらためて本作を読み返し、登場人物の情感の揺れを的確に表現するダールの筆致に唸った。特に画家である主人公が、愛する女の肖像画を見直した際、彼女の瞳に澱む暗い陰を無意識に描いていた自らの筆に驚愕する心理描写。さらに、青年が贈った安物のバイオリンを弾く彼女が、旋律と共に甦った過去を口にする瞬間の恐怖。
フランスの気怠さ、スペインの陽気さ。様々な情景が主人公の心象と重なり合い、次第に追い詰められていく二人の行方を暗示する。愛する者を守るために、どれだけ辛い試練を乗り越えていかねばならないのか。物語は加速し、クライマックスへ向けて悲劇性を高めていく。その果ての残酷で哀しい結末。悲痛な叫び声を上げて泣き崩れる男。これほどに胸を抉られるラストシーンを他に知らない。

評価 ★★★★★

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「裏切りのキロス」ジャック・ヒギンズ

先日綴った通り、本格物のみならず、ハードボイルドやスパイ/冒険小説の名作を再読し、レビューするつもりでいるのだが、如何せん未読の山を眼にすると、つい先に手を伸ばしてしまう。特にヒギンズの場合、初期には読み残しが多い。いつ「鷲は舞い降りた」(1975)に辿り着くか分からないが、この不世出の作家のルーツを探るためにも、あらためて発表順に読もうと無謀にも思い至った。といっても我慢出来ずに「死にゆく者への祈り」(1973)だけは、早々と〝探訪〟してしまうだろうが……。

ナチスの戦いで裏切り者の汚名を着た男、元英軍大尉ロマックス。彼は隠蔽された事実を掘り起こすため、時を経てエーゲ海のキロス島を再訪する。17年前、島にあるドイツ軍事拠点の破壊工作でロマックスに協力した島民らは何者かに密告され、強制収容所で地獄を味わっていた。ドイツ軍に捕らわれたロマックスが消えた後のことで、誤解を与えたのも無理からぬことだった。積年の恨みを晴らすべく待ち構えていた彼らの暴力と対峙しつつ、ロマックスは密告者が誰かを探り始める。

1963年発表作。美しい孤島を舞台に、過去と現在が交差するサスペンス主体の作品。過去を振り返る中盤ではマクリーン「ナヴァロンの要塞」(1957)に倣った戦争冒険小説のエッセンスもある。ただ、まだ模索期で、ハードボイルドと冒険小説の間を行き来し、巧く溶け合っていない。主人公を裏切り者に仕立てた島の人間を追求するというメインプロットは捻りがなく、勘のいい読み手でなくても真相を推測できるレベルだ。そもそもヒギンズは謎解きに力を入れるつもりは毛頭無く、ヒーロー小説をどう成立/発展させるか、作品を書き飛ばしながら、自分の資質/方向性を見極めようとしていた節がある。成熟した後の小説を考えれば、完成度が低く、小慣れていない面が目立つが、原石は確かにここにある。淡いロマンスを絡めた彩りも良い。

余談だが、本作にはジョン・ミカリという名の神父が端役で登場するのだが、設定は全く違うものの、隠れた名作「暗殺のソロ」(1980)の主人公と同じ名前だ。他にもドイツ人のシュタイナなど、後の作品で堂々と主人公を務める名を用いている。ヒギンズは似たような設定や情景が多いという指摘があるが、人物名についても一度気に入ったものは気にせず使ったようだ。それらは作品の質とは無関係であり、ヒギンズの世界観にぴたりと嵌まればファンとしては何の文句もない。

評価 ★★☆

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「悪を呼ぶ少年」トマス・トライオン

決してホラー小説を多く読んできた訳ではないが、文字通り恐怖感を覚えた作品は少ない。「悪魔の収穫祭」(1973)はその稀な作品のひとつで、ポーやラヴクラフトらの古典に通じる根源的恐怖を現代へと鮮やかに甦らせていた。トライオンは42歳で俳優を引退し作家に転業した。1971年発表した本作は、アイラ・レヴィンローズマリーの赤ちゃん」(1967)から刺激を得て創作したという。2年を費やしているだけあって完成度が高く、期待を裏切らない。

米国の閉ざされた田舎町でリンゴ農園を営み、三世代が同居するペリー家。物語は、同家の十歳となる一卵性双生児の弟ナイルズを軸に進行する。明るくて聡明な弟に対して兄ホランドは陰湿で暴力性を秘めていた。父親は不可解な状況下で事故死、母親は精神を病んで家に引き籠もっている。現在、ナイルズとホランドの面倒を見ているのは、愛情豊かな祖母アダだった。しばらく前から双子の従兄弟ラッセルが滞在していたが、反りが合わないホランドらは忌み嫌っていた。そんな中、ひとり遊びをしていたラッセルが、納屋の二階から落ちて死ぬ。ナイルズは、ホランドが殺したのではないかと疑うが、真相は分からない。その後も奇怪な出来事が立て続けに起こり、一家は重苦しい悲劇に見舞われていく。

三部構成で濃密な世界を創り上げている。まず、正体不明の語り手が冒頭で各篇の概略を述べるのだが、曖昧模糊とした不気味な口述で、果たして事実か否かを推測することは難しい。本編は、中盤までは格調ある文学的筆致で、ゆったりとしたペースで流れていくが、終盤に差し掛かるところで一気に様相を変える。全編に大胆な仕掛けを施しており、中途で積み重なった疑問が氷解し、第三部で恐怖の世界へと叩き込まれる。双子という設定を見事に結実させており、衝撃度が高い。

少年を主人公に据えたホラー小説は多いが、ノスタルジックなムードでごまかすのではなく、危うさを抱えた脆弱な子供の異常心理を真正面から抉り取る。その剛腕には目を見張る。
重く哀しい終幕に向けて徐々に読み手の恐怖心を煽っていく技巧は、この分野の手本にも成り得るもので、短絡的に悪魔や怪物、殺人鬼を放り込めばホラーが成り立つものではないことを実証している。

トライオンは寡作で、翻訳された作品も今では入手しにくいが、本作や「…収穫祭」を読む限り、豊かな想像力と秀れた創造力を兼ね備えていたことが分かる。何よりも、デビュー作にして圧倒的な筆力を見せていることに驚く。小説家として元々素質があったということなのだろう。下手なホラー作品を完全に凌駕している。

評価 ★★★★