海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「航空救難隊」ジョン・ボール

1966年発表の航空冒険小説の名作。シンプルなストーリーだが、その分密度が濃く、空に生きる男たちの熱い血潮が全編にわたり滾る。

カリブ海の孤島トレス・サントスに、かつてない規模のハリケーンが接近していた。ここを拠点とする民間航空会社のスタッフは、故障した大型プロペラ機を残してやむをえず島を出た。その頃、近海で墜落機の捜索にあたっていた民間航空巡察隊(CAP)の一機が、燃料切れで島に不時着。その際、プロペラを損傷し、飛行不能となる。まもなく、島の住民が助けを求めて、彼らがいる小さな飛行場に次々とやってきた。重い病気の者。全身大火傷を負った少女。トレス・サントスに医者はいない。CAPの二人は、不可解にも飛行場で羽を休めていた大型機を見る。彼らは単発機以外を操縦したことはなかった。だが、一刻を争う状況の病人を見捨てることなどできない。意を決した二人は、四発旅客機スーパー・コンステレーションへと乗り込む。何とかなる……。だが、彼らは知らなかった。この機が、熟練のパイロットでさえ匙を投げる昇降舵システムの損傷を抱えていたことを。

主人公格は、CAPのシルヴェスター大尉とチャン中尉。未曾有の危機に遭遇する中で、時に弱音を吐きつつも、励まし合い、ひとつひとつ試練を乗り越えていく。この誇り高き男たちを熱く活写する筆致が最大の読みどころとなるが、加えてヒューマニズムな感動を呼び起こすエピソードに溢れており、物語は短くても、分厚い。

初めて操縦する大型機、しかも致命的な故障があることを知らずに飛び立ち、米国を目指した彼らの苦難。いつ墜落してもおかしくない事態に追い討ちをかける凄まじい嵐。さらに、操縦桿を握るシルヴェスターが、まだ気付いていないことがあった。実は、この旅客機は乗客で満員だった。ハリケーンを逃れようと島の全村人78人が乗っていた。副操縦士のチャンは、人命を重視して、村民らの懇願を密かに受け入れていたのだった。しかし、病人らのみを乗せていると信じているシルヴェスターに、これ以上の精神的負担を掛けることはチャンには出来なかった。そして、来るべき時が来た。

クライマックスに向けての盛り上げ方には、職人ボールの腕が冴え渡っている。パイロットの指導教官でもあったボールの経歴が存分に生かされ、独自の用語を使う操縦のやりとりも、素人にも分かりやすく描いてある。臨場感豊かな飛行シーンが見事だ。何よりも飛行士たちへの深い愛情と尊敬に満ちた作家の思いが伝わってくる。

己の力を信じて闘い抜く。これぞ、冒険小説の王道だ。

評価 ★★★★

 

「暗闇にひと突き」ローレンス・ブロック

マシュウ・スカダーシリーズ、1981年発表の第四弾。まだ無免許探偵が酒を呑んでいた頃の話で、男はこの後「八百万の死にざま」で大きな転機を迎えることとなる。

9年前に起こった女性連続殺人。既に犯人は投獄されていたが、ただひとつ犯行を否定した事件があった。その犠牲者の父親が、スカダーに再調査を依頼する。真犯人を突き止めて欲しい。当時、市警にいたスカダーは、捜査員の一人として殺人現場を目にしていた。だが、時間がかなり経過し、新たな手掛かりなど望むべくもなかった。元刑事の嗅覚と勘を頼りにニューヨーク/マンハッタンを歩み、事件を洗い直し、過去を掘り起こす探偵。孤独と焦燥を癒す、自覚無きアルコールへの依存。それは、調査の進展に合わせるかのように、限界に達しようとしていた。

 プロットは凡庸で、スカダー以外に印象に残る人物はいない。逆によくこのアイデアで書いたなと思うほどだが、最後まで読ませてしまうのは、やはり語り口が優れているからだろう。真犯人の動機には無理があり、その贖い方も甘く釈然としない。実際、事件の謎解きよりも、スカダーの危うさの方に読み手の興味は移るだろう。「いつでもやめられる」と、うそぶいては酒に手を伸ばす。深い関係となった女にアル中ではないのかと訊かれたスカダーは「それはことばの定義による。これは中身よりもレッテルの問題だ」と、現実から目を背け、酒場へと向かう。後半でいよいよ記憶を無くす羽目にまで堕ちていくが、本作の段階では、まだ辛うじて持ち堪えてはいる。

探偵は依然として過去に縛られており、後の作品を考えれば意外なほど執拗に、跳弾によって殺してしまった少女や、別れた妻と子どもについて思いを巡らせている。同じように身を持ち崩していった元同僚らに対する鬱屈した共感も吐露。誰かのためではなく、ただ無為に生きている。事件に没入することもなく、常に醒めている。シリーズ末期のような社会正義を謳い、ヒーローめいた偽善を身に纏った高慢さを示すこともない。

物語の中で、スカダーは行きずりの辻強盗に対して過剰な暴力を振るう。この時点でスカダーは〝罪と罰〟の命題をさほど背負ってはいない。法そのものの欠陥によって街に放たれる犯罪者を、スカダーは時に私刑によって〝罰する〟。同時に、自らの暴力に畏怖し、その正当性に迷いを感じ、さらに酒を呑むことで逃避/忘却を試みる。この流れの延長線上にある「八百万の死にざま」に於いて、遂には行き着くところまで行き、スカダーは帰着としてのカタルシスを得る。ただ、大きな問題点は、一介の探偵が為す暴力行為を〝正当化〟する理由付けが曖昧なままで残されていることだ。ある意味〝不条理〟な暴力シーンに漠然とした虚無感を覚えたのは、まだスカダーが公私を問わず罪と罰に対して向き合おうとせず、そこに中途半端な脆弱性が露呈していると感じたからだろう。
少なくとも中期までは、80年代ハードボイルドの代表的シリーズであったスカダーの物語を深読みすれば、社会の底辺で身悶える者どもの悪と狂気を描きつつ、それを粉砕/浄化する〝暴力の正当性〟を提示し、如何にして正義が成し得るのかを模索する道程の記録でもあったと捉えている。近いうちに「……死にざま」を読み直し、ハードボイルド小説に於ける〝暴力〟の捉え方を主題に、さらに掘り下げてみたいと考えている。

評価 ★★

 

「標的の原野」ボブ・ラングレー

1977年発表の処女作。不条理な誘拐事件を発端とする本作は、中盤まではサスペンスが基調、後半に至り極寒の山岳を舞台にマンハントが展開する。ただ、冒険小悦としてはまだ萌芽のレベル。人物造形の浅さや、余分と感じるエピソードの挿入で物語の密度が弱まっている。とはいえ、筆致は瑞々しく、新たな旅へと出立したラングレーの熱い想いは伝わってくる。散見する冒険への息吹。環境破壊の問題を組み込んだテーマ、狂気の淵にいる犯罪者の哀しい半生など、印象に残る部分は多い。当然、ラングレーファンならば〝買い〟である。
評価 ★★★

 

「マンハンター」ジョー・ゴアズ

舞台はサンフランシスコ。或るアパートの一室で、たった今素手で殺した南米人の死体を見つめる大柄な男。傍には17万5千ドルとヘロイン1キロ。それを無造作にアタッシュケースへ詰め込む。男の名はドッカー。買い手側の代行者だった。間もなくして麻薬の鑑定人が現場を訪れた。待ち伏せて、一撃で昏倒させる。ドッカーはケースを手に取り、逃走した。この男を差し向けたのは、或る実業家の依頼を受けた私立探偵のニール・ファーゴー。二人はベトナム還りの戦友だった。ドッカーの裏切りを知ったファーゴーは、売り手である闇組織の親玉ハリスに事の次第を告げる。当然、ハリスは探偵とドッカーの共謀を疑った。窮地に立たされたファーゴーは、元軍人の足取りを追うが、ドッカーは追っ手を逆に挑発する不可解な行動を取り始めていた。

ダシール・ハメットの衣鉢を継ぐゴアズ1974年発表作。原題は「インターフェイス」(境界面/接点)。このタイトルの深い意味合いは、衝撃的な結末で知ることとなる。犯罪小説として完成度が高く、終始ハイテンションで展開し、非情で硬質な世界を構築している。プロットは綿密に練られており、技巧も鋭い。
物語の主軸となるのは、利権を狙う犯罪組織に利用された果てに麻薬で破滅する薄倖な女の悲劇であり、徐々にカタチを成していくのは、その復讐に身を挺する男の冷たい怒りである。終局へと流れるほどに滲み出る渇いた感傷。卑しい悪を粉砕するために、より熾烈な暴力の罠を仕掛ける男の姿が鮮烈だ。
特筆すべきは、客観描写を徹底的に貫き、ハメットが「マルタの鷹」(1930)で用いたクールな文体に、さらに磨きを掛けていることだ。主人公を含めて登場人物の内面描写は一切無い。しかも、幕切れで明らかとなる真相が、このスタイルだからこその効果を上げている。スタイリッシュなハードボイルドの真髄。その究極は、ポール・ケイン「裏切りの街」(1933)なのだが、ゴアズが先達の作家を深く尊敬且つ探究し、現代に甦らせていることが分かる。
本作はクライムノベルの雄スターク/パーカーに捧げられているが、これはゴアズの自信の表出でもあるのだろう。

評価 ★★★★

 

「噛みついた女」デイヴィッド・リンジー

ヒューストン警察殺人課刑事スチュアート・ヘイドンシリーズ第1弾で1983年発表作。ディテールに拘った重厚な筆致で現代社会の病巣を抉り、ハード且つハイボルテージな警察小説として読み応えがある。

 原題は「冷血」。狂犬病ウィルスを用い、街の娼婦を次々に殺す者。被害者は死に至るまで狂気の淵で悶え苦しむという極めて残忍で悪質な犯罪だった。さらに、この快楽殺人は、犠牲者の死にざまを犯人自身が〝見ることはない〟という点で特異だった。
ヘイドンは考察する。「犯人と犠牲者との接触には、恐怖や苦痛という要素も介在せず、暴力がふるわれることもない。……ふつうの大量殺人犯が、犠牲者を追いつめて殺すときに味わうにちがいない、あの身をこがすような狂熱の瞬間を、犯人は味わうすべもない」
続けて「大量殺人者や連続殺人者には〝本能的暴力衝動〟〝強烈な憎悪〟という共通点によって客観的分析が可能だが、この犯人には、それらが欠落している」と述べる。つまり、より異常さが際立っているのである。

当然のこと、捜査は難航する。被害者が死んだ現場に殺人者は〝存在しない〟ため、足掛かりとなるものが無い。ヘイドンは丹念な捜査を続けることで完全犯罪の綻びを探すが、そこに視るのは淀んだ狂気の残滓のみなのである。

 本作では殺人者の内面や過去を〝直接〟掘り下げることもない。どんな人格でどのような人生を送ってきたのか。その歪んだ肖像を塗り固めていくのは、主人公ヘイドンに他ならない。この極めて繊細で思索的な刑事は、殺人者が意図せず残した〝符牒〟を鋭敏に感知する。そして、コミュニティの中でどう位置付けられるかを推察し、自らと重ね合わせた上で、犯人像に迫る。つまり、刑事自身が媒介者となって〝悪〟の内面へと潜り込み、事の全容を〝視る〟のである。無論、ミステリにおいては犯罪者の心理を汲み取り把握しようとする刑事/探偵は少なからずいるが、ヘイドンの場合は極限まで〝同化〟し、不条理な暴力のリビドーを体内に引き込み、〝再生〟する。脳内で理解するのではなく、身体で感じるのである。
ヘイドンは常に事件の状況を妻に語ることで、要点を整理し、問題点を洗い直す。
「この事件の犯人は、なにかしらの邪悪なものを放射している。それが肌で感じられる。いまだ未知の、死という現象にいちばん接近した感覚、と言っていい。その種の体験が暗闇の中で自分を待ちかまえているのを感じると、否定できない自分の一面に出会ったような気もする。まじりっけのない邪悪さ……精神の一つの雛形のような気がする。自分の分身に直面するようなものさ」

刑事の眼を通して次第に焦点を絞り、浮かび上がる殺人者の鏡像は、より一層不気味な様相を見せ、読み手に鋭い緊張感を強いる。突然変異した怪物として捉えるのではなく、誰もが持ち得る悪の種子をそこに見出し、照射するからだ。つまりは、読み手自身さえも、そこに含まれるということだ。
本シリーズは重く暗い色調に覆われているが、最大の魅力は、安易な科学捜査/精神分析に頼らず、狂気に覆い尽くされた犯罪を解決へと導くために、ヘイドンが選択する手法、その過程そのものにあると言っていい。いわば、ニーチェ箴言「深淵を覗く者は、深淵もまた等しく覗き返す」に倣うことで真相に迫る訳だが、同時にそれは刑事自身が狂気に侵食され精神の崩壊を招きかねないという危険性を伴っている。
徐々に実体化する殺人者と、ヘイドンとの距離が縮まっていくさまは、単なる謎解きに終わらないミステリの〝深淵〟へ読み手を導く。警察小説でありながら、ノワールに近い肌触りの印象を残すのは、創作を通して悪の本質を見極めようとするリンジーの鬼気迫る凄みを感じるからだろう。

評価 ★★★★