海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「噛みついた女」デイヴィッド・リンジー

ヒューストン警察殺人課刑事スチュアート・ヘイドンシリーズ第1弾で1983年発表作。ディテールに拘った重厚な筆致で現代社会の病巣を抉り、ハード且つハイボルテージな警察小説として読み応えがある。

 原題は「冷血」。狂犬病ウィルスを用い、街の娼婦を次々に殺す者。被害者は死に至るまで狂気の淵で悶え苦しむという極めて残忍で悪質な犯罪だった。さらに、この快楽殺人は、犠牲者の死にざまを犯人自身が〝見ることはない〟という点で特異だった。
ヘイドンは考察する。「犯人と犠牲者との接触には、恐怖や苦痛という要素も介在せず、暴力がふるわれることもない。……ふつうの大量殺人犯が、犠牲者を追いつめて殺すときに味わうにちがいない、あの身をこがすような狂熱の瞬間を、犯人は味わうすべもない」
続けて「大量殺人者や連続殺人者には〝本能的暴力衝動〟〝強烈な憎悪〟という共通点によって客観的分析が可能だが、この犯人には、それらが欠落している」と述べる。つまり、より異常さが際立っているのである。

当然のこと、捜査は難航する。被害者が死んだ現場に殺人者は〝存在しない〟ため、足掛かりとなるものが無い。ヘイドンは丹念な捜査を続けることで完全犯罪の綻びを探すが、そこに視るのは淀んだ狂気の残滓のみなのである。

 本作では殺人者の内面や過去を〝直接〟掘り下げることもない。どんな人格でどのような人生を送ってきたのか。その歪んだ肖像を塗り固めていくのは、主人公ヘイドンに他ならない。この極めて繊細で思索的な刑事は、殺人者が意図せず残した〝符牒〟を鋭敏に感知する。そして、コミュニティの中でどう位置付けられるかを推察し、自らと重ね合わせた上で、犯人像に迫る。つまり、刑事自身が媒介者となって〝悪〟の内面へと潜り込み、事の全容を〝視る〟のである。無論、ミステリにおいては犯罪者の心理を汲み取り把握しようとする刑事/探偵は少なからずいるが、ヘイドンの場合は極限まで〝同化〟し、不条理な暴力のリビドーを体内に引き込み、〝再生〟する。脳内で理解するのではなく、身体で感じるのである。
ヘイドンは常に事件の状況を妻に語ることで、要点を整理し、問題点を洗い直す。
「この事件の犯人は、なにかしらの邪悪なものを放射している。それが肌で感じられる。いまだ未知の、死という現象にいちばん接近した感覚、と言っていい。その種の体験が暗闇の中で自分を待ちかまえているのを感じると、否定できない自分の一面に出会ったような気もする。まじりっけのない邪悪さ……精神の一つの雛形のような気がする。自分の分身に直面するようなものさ」

刑事の眼を通して次第に焦点を絞り、浮かび上がる殺人者の鏡像は、より一層不気味な様相を見せ、読み手に鋭い緊張感を強いる。突然変異した怪物として捉えるのではなく、誰もが持ち得る悪の種子をそこに見出し、照射するからだ。つまりは、読み手自身さえも、そこに含まれるということだ。
本シリーズは重く暗い色調に覆われているが、最大の魅力は、安易な科学捜査/精神分析に頼らず、狂気に覆い尽くされた犯罪を解決へと導くために、ヘイドンが選択する手法、その過程そのものにあると言っていい。いわば、ニーチェ箴言「深淵を覗く者は、深淵もまた等しく覗き返す」に倣うことで真相に迫る訳だが、同時にそれは刑事自身が狂気に侵食され精神の崩壊を招きかねないという危険性を伴っている。
徐々に実体化する殺人者と、ヘイドンとの距離が縮まっていくさまは、単なる謎解きに終わらないミステリの〝深淵〟へ読み手を導く。警察小説でありながら、ノワールに近い肌触りの印象を残すのは、創作を通して悪の本質を見極めようとするリンジーの鬼気迫る凄みを感じるからだろう。

評価 ★★★★