海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「三つの道」ロス・マクドナルド

私立探偵リュウ・アーチャーの創造によって、ハードボイルドの新たな地平を切り拓く前夜、1948年に本名ケネス・ミラーで発表した最後の作品。以前に書いたレビューの繰り返しとなるが、初期4作については、創作への迷いさえ感じとれる素描のようなものだ。円熟期の傑作「さむけ」や「縞模様の霊柩車」は、幾重にも塗り重ねた油絵の如き重厚感、繊細な絵筆のタッチに引き込まれる水彩画にも似た透明感、この相反する印象を与える多面性に加え、類い希なる美しい色彩/文章、緻密なデザイン/構成美が鑑賞者/読み手を魅了する。だが、ミラー名義の作品は、やや過剰ともいえる原色を塗り込んだ統一感の無い色調に覆われ、荒涼としている。ただ、後年の傑作群へと繋がる標しが刻印されていることも確かなので、ロス・マクドナルドの源泉として貴重だ。特に本作は、まだ生硬さが残るものの、精神分析学の強い影響下にあった実験的な意欲作であり、後にロス・マクが深めていく主題の断片が、キャンバスを縁取っている。

沖縄戦で負傷した米国海軍大尉ブレッド・タイラーは、帰宅直後に絞殺された妻ロレーヌを発見して昏倒、度重なる精神的打撃によって記憶喪失症へと陥る。療養所に入り既に9ヶ月が過ぎていた。殺害状況から妻殺しの嫌疑が掛かるが、タイラーの記憶は曖昧のまま完全には戻らない。男に付き添い、世話を焼く女ポーラは、ロレーヌとの結婚以前から愛人関係にあったらしい。死体発見時も、ポーラが同行していたという。本当にこの手で妻を殺したのか。ポーラは関わっていたのか。そもそも、ロレーヌがどんな女だったのかさえも覚えていない。タイラーは、真相を知るために濃い霧の中へと歩み出すが、浮かび上がってくるのは、ロレーヌではなく、20年前に死んだ母親の顔だった。絡み合う過去。錯綜する思念。交差する正気と狂気。事実を探る程に、闇は深くなっていく。

発端から異様なムードに包まれており、それは終幕まで続く。
「母親と細君の死の相似性から見て、疑わしい点があった。母親の死の場面が、分析的な精神の想像作用のなかで巧みに上演された、殺された細君の受け入れがたい、記憶の替え玉であるということは充分あり得ることだった。(中略)これはオイディプス型で、それがブレットが喪失感と呼んだものから生じる憂鬱症によって複雑化したのである」
これは、登場人物の一人である精神分析医クリフターの述懐だが、まるでフロイトの論説を抜き書きしたかのようだ。このように娯楽小説としては極めて異色の観念的で硬い文章(翻訳も旧い)が頻発する。大胆に精神分析学を導入しているのだが、物語の流れに溶け込まずに注釈の如く浮き、未消化となっていることは否めない。
結末の付け方も正義を為すことへの懐疑を滲ませた「甘い」もので、破綻すれすれだ。後に開花する優れた心象風景や鋭いレトリックは、まだ発展途上にある。人間の業を冷徹に抉り出す炯眼、質問者としての行動基準は、紛れもなくハードボイルドのスタイルを継承しているのだが、本作の時点では陽炎のように実体が定まっていない。この時、ロス・マクは33歳。小説家として、どんな未来を描いていたのだろう。

特異な点をもうひとつ。小鷹信光らが鋭く指摘していたことだが、本作はロス・マクが唯一「三人称」を用いた長編なのである。自我を滅することで、かえって強烈なエゴを表出させようという意図があったのだろうか。人称の設定は、ロス・マクに限っては重要な意味を持つと捉えている。以降、アーチャー以外の物語も含めて一人称で統一しているのだが、現代アメリカ社会の病巣、家庭の悲劇を抉り出す役割を担った主人公は、罪を犯す人間の闇と対峙するほどに、透明な存在へと変わり、限りなく「三人称」に近い「わたし」へと変貌する。つまりは、哀しい達観/傍観者の相貌に。深読みすれば、その前兆を「三つの道」に視ることも可能で、難解ながらも様々な読み方ができる作品だといえる。

評価 ★★★

三つの道 (創元推理文庫 132-3)

三つの道 (創元推理文庫 132-3)