海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「暗いトンネル」ロス・マクドナルド

本名ケネス・ミラー名義で1944年に発表した処女作。執筆時はまだ28歳の若さで、ミシガン大学在学中に書き上げている。当時カナダ提督であった作家ジョン・バカンの講演を聞いたことがきっかけで構想、その影響下で執筆したと述べている。とかくミラー時代の作品は軽視されがちだが、デビュー作とは思えないほど完成度は高い。何も私がロス・マクドナルドを偏愛しているからではなく、客観的にスパイ・スリラーとしての出来の良さに驚いたのである。正直それほど期待していなかっただけに尚のことだ。他の専門作家と比べても、決して遜色は無いため、単なる習作として切り捨てられている現状は残念だ。

 舞台は1943年、デトロイト近郊の街。ミッドウエスタン大学に勤める助教授ロバート・ブランチは、親友でもある同大学戦時委員会議長ジャッドから不審な話を聞く。米国内で暗躍するナチスのスパイに、戦時委員会のメンバーしか知らない極秘情報が洩れているという。ジャッドが疑っていたのは、ドイツ文学部教授ハーマン・シュナイダー。大戦勃発前にナチスに反発して亡命、最近になって息子ピーターをドイツから呼び寄せていた。ジャッドに協力することを誓ったブランチは、シュナイダーに接触するが、そこで予想外の事実を明かされて動顛する。間もなく、ドイツから逃亡してきた女性を助手として採用するという。ルース・ナッシュ。6年前、ブランチが勉強のために滞在していたミュンヘンで出会い、恋人関係となった女だった。正義感が強く、反ナチスの立場を貫いていた。だが、ブランチが国外退去となった或る事件の後、ルースは行方知れずとなっていた。シュナイダーの自宅を訪れたブランチは、ピーターとも会うが、敵愾心を剥き出しにする男に狂気を感じる。その夜、カナダから到着するというルースを迎える車に同乗。その途上でシュナイダーに危うく殺されかける。辛くも逃げ延びたブランチは、ジャッドのいる大学へと向かうが、そこで目撃したのは5階の自室窓から身を投げるジャッドの姿だった。

エリック・アンブラーのスパイ小説とバカンの冒険小説を融合したスリラーといった印象で、あとのロス・マクの作品を思えば、かなりの異色作だ。ただ、一人称一視点で多彩な直喩を多用するスタイルは、まだ生硬さが残るとはいえ、アーチャーシリーズでの美しく深遠な比喩への萌芽を感じた。気合いの入ったプロットと躍動感に溢れるシーンを繋ぐスピード感、そして手堅くまとめた構成力は、新人らしからぬ冴えを見せ、やはり作家としての資質を備えていたことを窺わせる。特に殺人者として疑われた主人公が逃亡劇を繰り広げる中盤のサスペンスは出色で、ロス・マクにはもう一度スリラーを書いて欲しかったと思うほど。伏線をしっかりと張り、謎を解き明かすミステリとしての体裁も整えている。反ファシズムという骨格、不条理な友人の死に怒りを滾らせて正義を為そうとする男の矜持も良い。真相には、直情型な主人公の設定を生かしており、鮮やかな結末へと繋げている。苦く甘いロマンスも、円熟期のロス・マクの達観した境地を考えれば、瑞々しく新鮮だ。つまり、ケチの付けようがない。

評価 ★★★★

暗いトンネル (創元推理文庫 132-1)

暗いトンネル (創元推理文庫 132-1)