海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「収容所から出された男」ブライアン・フリーマントル

多作でありながら常に水準を超えた作品を精力的に創作し続けるフリーマントル1974年発表作。非情なスパイの世界を冷徹に描いた傑作「別れを告げに来た男」を前年に上梓、デビュー作にして驚異的な完成度を誇っていたのだが、第2作も期待を裏切らず、才能豊かな作家の実力と幅の広さを実感できる。ただ、本作のプロットは異色で、ソ連強制収容所での暗鬱な幕開けが終わり本筋に入ると、予測不能の流れとなり、従来のスパイ小説の定型から外れていく。
仇敵の策略によって失脚したブルトヴァは、収容所内で自殺寸前のところまで追い詰められていたが、熟練の対外交渉専門家を急遽必要とした政府上層部の命により地獄から這い出る。ブルトヴァは首を吊るための紐を収容所内の友人に譲り、再び国家の仕事に就くこととなるのだが、この短いプロローグは衝撃的な終幕への伏線となっている。
ブルトヴァは、ノーベル文学賞候補者となった若い男バルシェフのために、財団などへの圧力を含めた交渉の任に当たる。ソ連にとって、反体制作家の象徴ソルジェニーツィンの轍を踏ませることなく、純度の高い文学者を輩出し世界の認知を得ることは、軍事力ではない民族的/文化的な威厳へと繋がる国家的プロジェクトであった。巧妙且つ狡猾な交渉術を駆使し、ブルトヴァは目的を達成するが、その先さらに大きな問題となったのは、作家を引き連れての西側諸国への講演旅行だった。荒んだ資本主義社会が情緒不安定で脆弱な文学者に与える悪影響は測り知れず、しかも取材に同行するピューリッツア賞受賞の写真家は男色家で、下手をすれば収容所から出された男の命取りとなりかねない。案の定、バルシェフは訪問先のアメリカで失態を演じ、必然的に監督責任を負うブルトヴァは追い詰められていく。不信と裏切り、色と欲、国家的な思惑と陰謀が絡み合い縺れる中、老境の男の眼前で、再び地獄への扉が開かれようとしていた。

息遣いまで伝わる卓越した人物造形と、それぞれの心理的葛藤を踏まえた情景描写、ラストシーンでの重苦しい述懐を高める緻密な構成。その筆致は熟成しており、なるべくして作家となったフリーマントルの力量をあらためて思い知る。原題の意は「立ち去る時はわたしを見て」。感傷的でミステリアスなタイトルの真意を、どう捉えるかは読者に委ねられているが、生き残りを懸けた私闘の果て、激情のままに主人公が吐露する最後の一文に、全ての答えが表出されていると私は感じた。

評価 ★★★★

 

収容所から出された男 (新潮文庫)

収容所から出された男 (新潮文庫)