海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「迷いこんだスパイ」ロバート・リテル

冷戦期を背景とするスパイ小説のスタンダードは「亡命もの」である。同テーマの〝職人〟ブライアン・フリーマントルをはじめ、これまで多くの作家によって傑作が書かれてきた。亡命を巡る諜報戦には敵味方問わず謀略が渦巻き、不信と裏切りに主眼を置くエスピオナージュでは格好の素材となるためだろう。1979年発表の本作も、その醍醐味を余す所なく伝え、ドラスティックな結末で忘れ難い印象を残す秀作である。

 ソ連の外交文書伝書係クラコフが亡命した。監視を逃れ、ギリシャの米国大使館にて実行、手錠で繋がれたケースには大量の極秘文書を収めていた。アメリカ情報部のストウンは真偽を探るため、クラコフの情報聴取(デイブリーフィング)を行う。亡命の動機、前後の状況に不審な点は無かった。最新の軍事機密と西側に潜り込んだ東側スパイ(スリーパー)の存在、間もなくして交渉の席につく軍縮協定への思惑……。彼が持参した〝土産〟には計り知れない価値があった。クラコフ亡命に動顛するソ連内の動きも自然だった。だが、逆に捉えれば何もかもが〝完璧〟過ぎた。この男を国外逃亡へと追い込んだ悲劇的出来事は、僅か8カ月間に集中して起こっている。ストウンは直観的な疑念を抱き、ある行動に出ることを決意した。ソ連に潜入し、クラコフの足取りと背景を調査する。それは、かねてよりストウンが切望していた任務だったが、同時に過酷な策謀の世界へと迷い込むことも意味した。

 ストウンが所属するのは「特別行動班七五三-風土研究」。この奇妙な名称を持つ組織は、総合参謀本部議長専属の情報機関であり、専門外活動として、ソ連からの亡命者の情報聴取を担っていた。だが、組織本来の目的は、ソ連への潜入工作員の教育と支援手段を行うことだった。創設以来、まだ潜入を果たした者はいなかったが、常に〝その日〟に備えていた。送り込まれる予定の工作員は全てロシア系米国人で、ソ連内の現況を事細かく把握し、現地と同様の言語や生活様式で過ごしていた。交通機関のダイヤやスポーツなど文化的な話題までに至るまで最新の情報を網羅、頭に叩き込んでいる。ストウンはそのエキスパートだった。つまり、クラコフの案件は特別行動班の存在意義を示すまたとないチャンスとなった。この特異な設定が核となり、物語は後半に入り大きく流れを変える。

 リテルは処女作「ルウィンターの亡命」(1973)で華々しく登場し、ツイストを効かせたプロットでスパイ小説界の新星として注目を浴びた。本作は処女作に続き、直球と変化球を織り交ぜて読み手を翻弄するゲーム性の高い亡命もので、中盤までは緩いペースだが、ストウンがソ連に潜入するパートから一気にギアを上げる。シャープなタッチはアメリカの作家ならではのスタイルで、情景描写や登場人物の造形は簡潔で無駄がない。その分深みには欠けるのだが、リテルが重視しているのは、人間ドラマよりも、諜報世界の虚妄を撃つことにあると感じた。作者のシニカルな視点は、時にユーモアを湛えつつ、敵を出し抜くことのみに執着する米ソ巨大スパイ組織の虚無性を暴き出す。同時に、使い捨ての駒として盤上から転がり落ちていく工作員の悲哀も描くのだが、それを表象するのが、主人公を待ち受ける皮肉な末路だ。すべては、この残酷な終幕のための長い序章に過ぎなかったと感じるほどのインパクトを与える。

評価 ★★★☆☆