海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「南極大氷原北上す」リチャード・モラン

本作の時代設定は、〝近未来〟の1995年(発表は1986年)。大規模な地質学的流動により南極大陸下の海底噴火口からマグマが噴出。その結果、32万平方キロメートルに及ぶ巨大なロス棚氷が大陸と分離され、太平洋へと流れ出す。この棚氷が溶けた場合、海の水位は6メートルも上昇。さらには、棚氷の無くなったロス湾から、南極大陸の西氷床全体が滑り出し、一気に水位を上げると予測。世界の港湾都市や大陸沿岸部だけでなく、内陸の広大な地域が水没することになる。南海の島々、米国フロリダ、メキシコ湾内陸部一帯、ヨーロッパではオランダ全土が海の中へと消える。ニューヨークやロンドン、東京などは、ベニスのような運河の街と化す。全ては時間の問題だった。この衝撃的事実に、世界は震撼する。

力強いストーリーテリングに唸るスペクタクルの秀作。未曾有の危機にどう立ち向かうか。単なるパニック小説で終わることなく、あらゆる側面から克明に記録している。刻一刻と変わる状況を俯瞰的にリアルタイムで追い、雑多に陥ることなく的確に描き分ける筆力は相当なものだ。着想の根拠とする科学的データやシミュレーションについても、専門家の検証と助言を得た上で構想しており、真実味を帯びている。何よりエンターテインメント性を重視し、大量の情報を扱うにも関わらずスピード感を損なうことなく構成している。物語の中心となるのは、最悪の結末を防ぐべく叡智を結集する科学者らの命を懸けた闘いだが、逃げ場を失い津波に飲み込まれていく被災地の様子や、前例の無い難局に混迷する各国政府の危機管理能力、恐慌をきたす人々を遅滞なく避難させるために敷く報道管制のあり方など、起こり得る惨状と問題点を多面的に盛り込んで活写している。また、主役級から端役に至るまでしっかりと造形。生と死にまつわる印象深いシーンも多い。

これだけでもプロットとして充分だが、本作はさらに捻りを加えている。時は冷戦下であり、人類が直面した災厄に乗じて覇権争いを加速させようとする米ソの攻防を同時進行で描くのである。ソ連軍部は、これ幸いとばかりに流出した棚氷を軍事利用する大胆不敵な謀略に着手。察知した米国はレーザー戦闘衛星で一網打尽にする対抗策を打ち出し、ついには核爆弾使用が避けられない泥沼へと嵌まり込む。つまり、水没と核戦争という破滅のシナリオが二つ同時に展開する訳だ。地球が危機的状況にありながら人命軽視のゲームに明け暮れる権力者の愚劣さと、一人でも多くの生命を救うために邁進する者たちの熱い信念の対比。この重層的な構造がよく出来ている。
この物語がどういう結末を迎えるか。作家として腕の見せ所となるが、モランは中途半端に投げ出すことなく、あくまでも正攻法にこだわった鮮やかな解決策を提示している。

現実的に南極の氷は温暖化の影響により急激に溶け出している。仮に、全世界の淡水の70%を占める南極氷床の氷が融解すれば、世界の海水面は60メートル上昇するという。事実、南極半島の気温はこの50年間に約2.5℃も上がり、巨大氷山の分離などが起こっている。つまり、本作の主題は決して絵空事ではない。

評価 ★★★★