海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「シンガポール脱出」アリステア・マクリーン

戦争小説の名作として今も読み継がれている「女王陛下のユリシーズ号」(1955年)でデビューを果たしたマクリーン1958年上梓の長編第三作。現代に通じる戦争/冒険小説の骨格を創り上げた初期の作品は、まさに神憑っているとしか例えようがない。映画化された「ナヴァロンの要塞」を機に金銭的に潤ったマクリーンが次第に精彩を失ったという定番化された冷評もあるが、真に「傑作」の名に相応しい雄編を数え上げれば、質・量共に他の作家を凌駕していることは明らかだろう。
海に滅びゆく者たちの一大叙情詩「ユリシーズ」、エンターテインメントとしての冒険小説を徹底的に突き詰めた「ナヴァロン」。さらに極寒のハンガリーを舞台に激烈な諜報戦を描いた「最後の国境線」(1959年)などは、実際にページを捲る指先が凍傷にかかったような感覚に陥ったほどで、極限状態であればあるほどに冴え渡るその圧倒的な筆力は、やはり天性の才能だと認めざるを得ない。

本作は、虚妄に過ぎない「大東亜共栄圏」の旗印のもと、東南アジア諸国へ侵攻した「大日本帝国」を敵役とし、実際に英国海軍従軍中に捕虜となったマクリーンの苦い経験が活かされている。陥落寸前のシンガポールで退路を絶たれた民間人や英国軍人らは、密航船で辛くも脱出するが、座礁して沈没。付近を航行中だった英国籍大型タンカーが生存者を救出したものの、敵の戦闘機の攻撃を受け、救命ボートで洋上を漂うこととなる。だが、不可解なことに日本軍は止めを刺さない。遭難者の中に潜り込んだ敵側スパイ。狙うのは、正体を隠して乗船中の英国将軍の極秘文書。密命を帯びた者とは誰か。灼熱の地獄の中での決死のサバイバルが展開していく。

マクリーンが好んで描くのは、どんな状況であろうと屈せず闘うプロフェッショナルの姿だ。本作の主人公/一等航海士ニコルソンは、常に先頭に立ち、身を挺して危機を乗り越える誇り高く、ストイックな男である。ヒーローとしては申し分のない理想像なのだが、マクリーンは臆することなくストレートに活躍させるため、決して嫌味にはならない。現代の冒険小説では、精神的弱さやハンディキャップの克服も大きなテーマとしているが、決して弱音を吐かず、強靱な精神力/経験を培った男が数多の試練に立ち向かうシャープな冒険行が、雑じり気のない感動を呼び起こすのは、まだ「騎士道精神」的な美学が冒険小説の根底に流れていたからだろう。ラストシーンのぶつ切り感も、硬派なマクリーンの世界を象徴する終幕といえる。

評価 ★★★