海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

鉛の心臓は何故二つに砕けたのか。〜「幸福の王子」オスカー・ワイルド〜

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人生の旅路。その途上で出会う幾つかの物語。

オスカー・ワイルドが30代で発表した美学の結晶『幸福の王子』は、今でも折にふれて読み返している。耽美で静謐な文章、自己犠牲の尊さと虚しさを説く強烈な風刺。凍てついた街を舞台に、無力な偶像と一羽の鳥が死の間際に善行を為すさまを描いた、いわば詩篇の如き作品だ。極めて神学的なムードに包まれてはいるが、一切の虚偽を否定することにおいては、無神論を含んでいるというパラドックスも成り立つ。
極寒と貧困の中で苦しみ悲しんでいる人々へのささやかな救済。心を揺さぶる端麗なる語り。どう生きるべきか。或いは、どう死にゆくべきか。それは、実存の根源的問い直しでもある。

表題作に初めて触れたのは子ども向けに製作されたテレビ番組だったと思う。鮮やかな色彩を放つ影絵による魅惑的な表現と、どうしようもなく切なく悲しい物語は、少年から涙を絞り取った。

物語を振り返ってみよう。

北ヨーロッパの或る町。高い柱の上に立つ純金で覆われた「幸福の王子」の像があった。眼には二つのサファイア、剣の柄には紅いルビー。その輝かしき偶像は町の住人にとって誇りであった。秋から冬へと季節の変わる頃、渡り鳥の小さなツバメは、愛する葦のつれない素振りにようやく踏ん切りをつけ、ようやく遠いエジプトへと旅立つ決心をする。途中、ひと休みするために舞い降りたのは、金色に輝く王子の像、その足元だった。

雲ひとつない星空の夜。ツバメにぽとりと水滴が落ちてきた。見上げれば、両目いっぱいに涙を浮かべた王子。ツバメは尋ねる。「どうして泣いているの?」
かつて人が羨む環境に生まれ育ち「快楽」しか知らずに死んだ王子は、黄金の像となって甦った。そこで初めて、町の人々の悲惨な現状を知る。貧しき人々の姿をただ見ているだけしかできない現状に耐えかねた王子は、小さなツバメにお願いをした。
「ツバメさん、私の剣の柄にあるルビーをあの貧しき人のもとへ届けてくれないか……」
王子は我が身を美しく彩る宝飾の数々を、小さなツバメに託す。いまだに我が身を飾る宝石。それはツバメが目指す、かの地の死んだ王とともに眠る財宝と同様、あまりにも無意味な虚飾だった。それを剥がし、町の人々の悲しみを癒し、幸福を与えていく。もう冬はそこまできており、早く旅立たなければならないツバメは焦っていた。だが、同時に純真な王子に次第に惹かれていることを感じていた。
「とても不思議だけど、こんなに寒いのに、僕の心はとても温かい……」
王子は答える。「それはとても良いことをしたからだよ」

貧困により、病気の子どもを医者にもやれず川の水しか与えることのできない母親、空腹と寒さのために夢さえも諦めかけている青年、マッチが売れなければ父親に殴られてしまう少女、金持ちの家の前で倒れこむ憐れな乞食、薄暗い路地裏で飢えに苦しむ幼い兄弟……。

「幸福」とは、何か。
幸福の王子」と呼ばれた私の存在は、何であったのか。

小さなツバメは運び続けた。「幸福の王子」のカケラを、続くかぎり、その嘴に銜えて。自分に温かいまなざしを向けてくれる王子。その両目の美しいサファイアも、その身を包み込んでいた純金も、すべて貧しい人々に分け与えてしまってた。
雪が降り、銀色に包まれた町が輝きだす。
ツバメは既に最後の幸福の欠片を届けてしまっていた。王子の肩にとまり、遠いエジプトの夢のような暖かさ、不思議な出来事、その素晴らしさをいつまでも語る。そして心から王子を愛しているのを感じた。今は遠くのエジプトで過ごすよりも、王子とともに過ごし彼の願いを叶えてあげることが、幸せのカタチであった。だが、終わりの日は、すぐそこまできていた。

「さようなら。愛しい王子さま」
とうとうエジプトへ行くのだね、と語りかけた盲目の王子は純金を剥がされて輝きを失い、暗い灰色の像となっていた。
「違います。死の家へと行くんです」
小さなツバメはそう言うと、最後の力を振り絞って飛び立ち、王子の唇にキスをした。
……そして、絶命した。

愛する小さなツバメが、彼の足元に落ちた瞬間、「幸福の王子」の像の中で、何かが砕けた音がした。
それは、彼の鉛の心臓が二つに割れた音だった。

後日。
みすぼらしい王子の像を、市長と市会議員たちは打ちこわし、鋳造所の溶鉱炉で溶かすように命じた。己らの新たな像に創り上げるために。富と権力の象徴とするために。だが、鉛の心臓だけはどうしても溶けることなく、死んだツバメの横たわるゴミ溜めに捨てられた。
神は天使たちに言った。町で最も貴いものを二つもってきなさい、と。天使たちは迷うことなく、あのゴミ溜めを目ざした。

 

美しい身体を飾っていた純金は、いわば人間の欲の象徴ともいえる。死してなお、権力者たちに「富」と「美」の偶像として崇められ、皮肉にも「幸福の王子」と呼ばれた彼は、高い柱の上から貧しき人々の姿を視ることで、ようやく「幸福とは何か」に思いを馳せることができた。だが、今となっては何一つ成すこともできない。ただ、涙を流すこと以外は。

彼は名も無き小さなツバメという伴侶を得た。穢れた虚飾を剥ぎ取り、富める人間たちの虚像であった己から開放され、さらに町の人々を幸福へと導く王子は、ようやくこの時点で「幸福」を手に入れたといえる。自らが虚構の塊りであったという、哀しい現実。その偶像を破壊することにより、深層で渇望していた「愛する」ことにさえも気付くことができた。例え、その尊い「愛」が、愛する者の「死」と引き換えとなり、さらに自らの心臓を引き裂くことになろうとも。

幸福の王子」が、本当の「幸福」に包まれながらも、一瞬にして散っていったことを、救済された町の貧しき人々が知ることは決してなく、彼は名も無き小さなツバメとともに、神の国へと導かれていく。
そして薄汚れた王子の像を引きずり下ろす、町の権力者の顔は醜く歪み、今度はオレが町のみんなに崇拝される像になってやる、と意気込む。

人間は、すべて平等に生まれつく。
だが、近現代史に於いて、平等な環境に生まれ、差別無き平等な社会で生き、そして死んでいく、という例は一切無い。世界中の歴史、現代史を紐解けば明らかであり、「そんなことはない」という反論は事実を知らぬ/視ないだけの欺瞞である。常に我々が知る/知らぬを問わず、差別は歴然として社会の暗流を流れ、受け継がれ、富める者と貧しき者、力を持つ者と持たざる者、差別する側と差別される側という歴然たる棲み分けが成されていく。「中流」などという権力者にとって都合が良いだけのまやかしも、「下流」という差別の上に成り立つことを忘れてはならない。

富める者、権力を持つ者ほど、生きながらにして己の銅像肖像画を作るものである。剥き出しの権力志向、根拠無き差別/特権意識と薄汚い自己陶酔は、過去/現在を問わず日本の政治屋どもを見れば明らかであろう。卑しく歪んだそれらのツラと、強欲と虚栄心に溺れた醜態を、嘲笑するのはたやすい。富と権力という虚飾を剥がし、生身の人間としての姿を晒せば、差別していた者の足元にも及ばぬちっほけなデクノボウに過ぎない。だが、単なる皮肉屋でいることは、自らも何も為さず、社会悪を変革できない傍観者であることと同義であり、それもまた大きな罪である。鉛の心臓のカケラを宗教学的な神物、殉教者の遺物として崇めるのではなく、一切の欺瞞を剥がした「ゴミ」そのものとして捉え直さねばならない。何故なら、無価値のゴミこそが、我々自身が受ける罰を表象しているからだ。例えば、〝夢のエネルギー源〟原発の核廃棄物は、人を殺すゴミだ。それは、寓話のようには昇天せず、半永久的に我々の罪の偶像として足もとに有り続けるのである。

幸福の王子」の最期と同じく、今の我々は「盲目」であるように思う。だが、大きく違うのは、自らの手で眼を塞いでいるという点だ。

そして……耳をすませば、聞こえてくるのだ。
我々のすぐ傍にある暗闇の中で、砕け散るあの哀しい心臓の音を。

 

少し、回り道をしすぎたようだ。

耽美で静謐な描写力、自己犠牲の尊さと虚しさを説く物語の強烈な風刺は、次篇の『ナイチンゲールと紅い薔薇』へと継がれ、更なる昇華へと至る。
幸福の王子』は、決して年少者向けの童話という範疇に括りきることはできない珠玉の芸術作品であり、大人こそ読むべき短編集である。

 

幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)

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