海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「残酷な夜」ジム・トンプスン

裏社会の〈元締め〉から殺しを請け負った〝おれ〟ビゲロウは、田舎町ピアデールを訪れた。ターゲットは、暗黒街の秘密に通じていたノミ屋ウィンロイで、被告として裁判を控えていた。やつは、口封じで殺されるを恐れ、酒に溺れる毎日を送っている。ウィンロイは今、若い妻フェイと下宿屋を営んでいた。おれは大学の聴講生として下宿し、計画を練りつつ機会をうかがう腹だった。だが、徐々におれは言い知れぬ不安と焦燥の中に埋没していく。暗殺者の影に脅えるアル中のジェイク、即刻おれに接近して挑発する好色フェイ、何かとおれの世話を焼きたがる下宿人の老いぼれケンダル、同家家政婦として働く身障者の大学生ルース、おれの存在を怪しむ保安官サマーズ。どこかに〈元締め〉の息がかかった監視者がいるに違いない。疑心暗鬼の中で、おれは妖魔と戯れ、その果てに地獄の扉を叩く羽目になる。

本作でトンプスンの〝闇〟が極限に達したという評判は知っていた。恐らく〝これぞノワール〟を象徴する狂った終幕故なのだろう。だが、私は最後の一文まで終始醒めていた。乱暴に評するなら、捉えどころのない〝なにか〟が浮遊するだけの完成度が低い〝失敗作〟という読後感だ。粗い文体と雑な構成、どこまでも靄がかかった情景、締まりのない挿話が続く冴えない筆致。狂気を秘めた男の独白という前提があるとはいえ、脈絡のない流れや不可解な登場人物らの不条理なやりとりには生彩がない。読み手は、どこまでも粗野で不明瞭な男に振り回されることとなる。

主人公ビゲロウは、過去に16件の殺人容疑のかかるプロの犯罪者という設定だが、その冷徹さを伝えるエピソードは一切無い。逆に、回りの人間から影響を受けやすく、行き当たりばったりで、優柔不断。非情な殺し屋とは思えない素人臭さがひたすらに印象付けられていく。女を引き込むのはうまいが、関係を持った後は引っ張り回されて、手綱を握れない。何をするにしても間抜けで情けない男なのである。
この凡庸な殺し屋を襲う狂気がどのようなものかが本作の肝となっているのだが、一気に血塗られた暴力が炸裂するラストシーンは、ノワールというよりも恐怖小説を想起させる。スティーヴン・キングがトンプスンにシンパシーを抱き、大絶賛するのも当然だろう。深読みすれば、自作のパロディとも受け取れる面もあるのだが、どうにも書き飛ばしたような感が拭えない。何しろ、トンプスンは本作発表の1953年には5作品を上梓しているのである。

以前読んだ「死ぬほどいい女」(1954)では、終盤へと至る過程に不自然さがなく、一気にテンションを上げるレトリック/技巧の凄さに驚嘆し、これぞ真骨頂だと感じた。もっさりとした展開で切れ味のない本作とは、格段の違いがあった。「残酷な夜」を批評家らが代表作として扱うのは「どす黒い過激性こそノワールだ」という表面的で分かりやすい括りに当て嵌まるからだろう。

全てが無に帰する本作がノワールであることは間違いない。けれども、諸々の伏線(あるとすれば、だが)を投げ出したまま、強引に突入するラストは、物語に収拾がつかなくなった末の〝逃げ〟のように感じた。果たして、この数章でのカオスは、カタルシスを狙ったトンプスンの技なのだろうか。シュールレアリスティックな強烈な幕切れではあるのだが、ここから読み取れるものが何も無い。要は、物語に整合性が取れなくても暴力や血を噴出させれば成り立ってしまうホラーと同じ範疇なのである。

米国ノワールの代名詞であったジェイムズ・エルロイ失速と立ち替わるように、過去から甦ってきた異端の作家トンプスン。その死から長い年月を経て、ジャンルとして根付いたノワールの象徴として再評価されただけでなく、すでに神格化された節もある。
ハメットやチャンドラーを経て〝成熟期〟を迎えていた50年代に、この極めて特異なスタイルを貫いていたトンプスンはやはり〝驚異〟なのだろう。けれども、「残酷な夜」は〝壊れた〟トンプスンを語る上では欠かせない問題作かもしれないが、決して最良の作品ではない。

評価 ★★