海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「ウェットワーク」フィリップ・ナットマン

近年の欧米ホラー映画の定番は、いわゆる〝ゾンビ物〟のようだ。宇宙からの怪光線や謎のウイルスによって死者が蘇り、人間の生肉を喰らい、噛まれて死んだ者は同類となって蘇生、頭部を破壊しなければ永遠に生きる屍となって地上を徘徊する。カニバリズムなどタブーを打ち破る非倫理性に加え、宗教的な終末観をも組み込んでいる。同時発生的/無差別的に起こるため、必然的に集団パニックと生き残りを賭けたサバイバルがメインとなる。当然のこと〝ブーム〟に乗り、少なからずの小説が書かれているようだ。1993年発表の本作もそのひとつ。定着したパターンに沿いつつも、独自のアイデアを盛り込んだ〝ゾンビ小説〟に仕上げている。

主人公格は二人、CIA特務機関工作員コルヴィーノと警官パッカード。その行動を同時進行で追い、アメリカの限定された領域での顛末を描く。地球に最接近した未知の彗星。その尾に触れた世界中の都市で異常な事態が一気に起こる。死んだはずの人間が生き返り、人を捕食した。この日、コルヴィーノは対テロ工作におけるCIA内部の不正を探っていたが、何者かが放った銃弾によって死亡。だが、死体置き場で再び〝目覚めた〟。断片的な記憶は残っており、己を〝殺した〟者への復讐を誓うが、人肉を求める激しい餓えに抗うことができない。一方、ワシントンDCの分署配属となったパッカードは、各地で続発した凶悪事件の現場を駆け回るが、此の世の地獄と化した街に呆然とし、もはや警察が果たせる役割など無いことを知る。パッカードは離ればなれとなった妻との再会を目指し、狂乱と荒廃のただ中を潜り抜けていく。正気であること自体、困難だった。

一連の映画作品を踏襲しつつ、幾つかのアレンジも加えている。
ひとつ目は、程度の差はあるが、ゾンビ化した者は意識を保つということ。つまり、記憶を司る脳が損傷を免れており、己が何者なのかを自覚している。そして、僅かながらも理性を備え、思考する。しかも、普通に会話できるのである。CIA工作員コルヴィーノの視点がこれだ。そのため、相手が人間かゾンビか明確に判らない、という珍現象が起こる。この辺りはユニークだ。物語の中では米国政府中枢の混乱ぶりも挿入し、核のボタンを握る〝ゾンビ大統領〟も登場する。果たして、理性が勝つか、本能に従うか。
ふたつ目は、風邪などのごく軽い病気が重症化して、速攻で死に至ること。第三に、蘇る期間は数日に過ぎず、結局は二度死ぬ。つまり、いずれ人類は全て死に絶えるということだ。
 筆致は映像的でテンポが良い。グロテスクなシーンは極力抑え、活劇的要素を盛り込み、娯楽性を高めている。
私は、ジョージ・A・ロメロ監督の代表作を含めて関連映画は数本観た程度に過ぎないが、残虐描写はエスカレートする一方、フォーマットは似たり寄ったりで、素材としては大きな拡がりがないと感じている。心理的恐怖よりも優先するバイオレンス、救いのない退廃的な世界観、際限なきサディズム。ただ、今も量産されているのは、それだけニーズがあるということなのだろう。なんにせよ、B級テイストを満載した本作は、この手の分野が好きな読み手なら充分満足のいく出来だろう。

評価 ★★★