海外ミステリ・レビュー

……新旧の積ん読本を崩しつつ

「クラム・ポンドの殺人」ダグラス・カイカー

1986年発表作。翻訳ミステリ華やかなりし1991年に〝ひっそり〟と翻訳され、全く話題になることもなく埋もれてしまった作品だが、私は夢中になって読んだ。有力者であった老婦人の死をきっかけに、崩壊していく小さな田舎町。惨事は思わぬ方向へと波紋を拡げ、脆弱な共同体に潜んでいた闇を抉り出す。

 舞台は米国マサチューセッツ州ケープ・コッドにある避暑地ノース・ウォルポール。この地にふらりと流れ着いたホレース・マクファーランド(通称マック)は、酒場で知り合った男から湾岸沿いの古い家を借りた。雪の降り続いた或る夜、事件は起きた。マックは、隣の豪邸に住む老婆ジェーン・ドレグゼルの死体を雪上で発見する。絞殺だった。彼女の家は施錠されていたが、内部はひどく荒らされていた。現場の状況から、被害者が知古と会っていたことは確かだった。警察署長シモンズを中心に捜査が始まるが、手掛かりは得られない。ドレグゼルは遺言状を改めたばかりで、巨額の遺産を地元の自然保護団体などに遺していた。容疑者は定まらなかったが、何十年にもわたり彼女が金銭的に支援していた者が少なからずいた。シモンズもその一人で、他にも銀行頭取や弁護士、環境保護団体代表など、今では町の中枢にいる者たちがドレグゼルと密接な関わりを持っていた。動機は、カネか怨恨か。そんな中、第一発見者となったマックに、新聞社「ボストン・グローブ」の編集者から声が掛かる。取材して記事を送って欲しい。マックは失業中の新聞記者だった。薄れかけていた〝記者魂〟が疼き、失意の只中にいた男を再び奮い立たせた。

プロットに大きな起伏はなく、斬新な謎解きや捻りもない。鋭い社会批判や含蓄のある台詞が溢れている訳でもない。恐らく、大多数のミステリ・ファンは、凡庸な作品と評価を下すだろう。そもそも、作者には小難しい推理小説を書く気など端からなかったようだ。けれども、私は序盤から魅せられていた。カイカーは本作執筆時点でNBCの著名な現役記者だったという。何気ないエピソードが強い印象を残すのは、記者生活の中で培った経験と、磨かれてきた文章の力があるからこそだろう。淡々と気取りのない筆致だが、心象風景が鮮やかに伝わってくる。この物語の真価は、何よりも語り口にある。

凍てついた冬の情景。踏み固められた人々の焦燥。それを溶かしつつ、事実を掘り起こしていく孤独な男の歩み。ナイーブでありながらも、揺るぎなき気骨。弱者への共感と痛み。主人公の過去は徐々に明かされていくのだが、やさぐれた中年男の憂愁が滲み出ている。記者としての栄光と挫折、そして〝再生〟。生きる上で譲れない信条をしっかりと抱き続ける後ろ姿に「男であることの誇りと悲哀」を感じた。

新聞記者として、誰にも負けないという矜持。マックは、シカゴにある新聞社の社会部で、悪徳警官や腐敗官僚、未解決犯罪や詐欺など、25年間にわたり第一線で報道し続けた。或る精神病院の内情を告発する連載記事によって、ピューリッツァー賞受賞の栄誉にも輝いた。だが、会社は乗っ取られ、どうしようもないゴシップ記事を載せ始めた。堅牢で信頼できる市民の広報だった紙面が、ゴミ同然のニュースで埋め尽くされた。才覚のある連中は、さっさと見切りを付けて退社していった。生活資金が必要だったマックは、それでもぐずぐずと居残り続けた。挙げ句の果てには、三流記者が書いたスキャンダル記事に自分の署名を無断で使われた。編集室長に怒鳴り込んだ時、一切は終わった。さらに同時期、美貌だが好色な若い妻の不倫が発覚し、離婚した。マックは、怒りの余り暴力的な報復手段に出たため、僅かな財産の殆どを奪われた。彼に残されたのは、オンボロワゴンと、元妻が飼っていた老犬マウマウのみだった。この雌犬は、いまだにマックに対して反抗的で、顔を見る度に唸り、隙さえあれば脱走を試みた。
物語の所々で男と犬が〝本気で感情をぶつけ合う〟シーンがあり、暗い色調の物語に一時の清涼感を与えているのだが、本作は何気ない情景が実に読ませるのである。他にも、環境保護団体の代表であり、若くして未亡人となったケーティとのロマンスも描き、純心で不器用な二人が絶妙な掛け合いで楽しませてくれる。特に胸が熱くなったのは、ドン底にいた主人公が記者として再び認められた時の喜びを切々と綴るモノローグだ。50歳という人生の節目を迎え、心身ともズタボロになった男が、多少格好悪かろうが〝男泣き〟し、己の天職と信じる新聞記者として奮起する姿に、私は心を揺り動かされたのだった。

大富豪の資産頼りで細々とはいえ発展してきた町。その恩恵を失った閉鎖的な共同社会がどのように破綻していくか。余所者である新聞記者が、町の人々とどのように交わり、隠された事実を暴くのか。保守的なコミュニティーの中で、生きづらさを抱えた人々。その姿を憐れむのではなく、傍に寄り添い、人間の業を見つめ、記録する。非難するでもなく、達観するのでもない。そのしなやかな視線が、心に染みる。終盤で明らかとなる真相は、ひたすらに哀しい。その罪を浄化するが如き、厳しくも優しい終局は、ロス・マクドナルドの作品を彷彿とさせる余韻を残す。紛れもないハードボイルドであり、上質の小説である。

評価 ★★★★